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終戦の頃の回想−@

鳥本さんの終戦の日の回想メール、切羽づまったあの時代を生き残った戦中派の一人として、共感をもって拝見しました。
私は昭和18年9月、旧制中学3年2学期(15才)で予科練を志願し、土浦海軍航空隊に入隊しました。

お国のために志願したのではありません。当時、こんなことを言ったら国賊として厳しい処分が待ち受けていましたが、私は内心家の暮らしを少しでも助けたいという思いで一杯でした。
一サラリーマンの妻が9人の子を生み、育てることは大変なことです。
月末近くになると山高帽の目つきの鋭い高利貸が、表面穏やかそうな声色で借金の取立てにやってくる、それに対する母の言い訳を物陰で聞いていると、子供心に母の苦労がよく分かりました。

母を少しでも助けるためには、私が軍隊飯を食べればいい、そうすれば家計が一人分助かると私は納得して志願したわけです。

土浦海軍航空隊で10カ月の基礎教育を終了すると、操縦と通信の適正険査があり私は念願の操縦方面可となり、昭和19年7月に水上機飛行練習航空隊である鹿島海軍航空隊に転属となりました。
ここでは九三式中間水上練習機(通称水の赤トンボ、双胴のフロウト下駄履き)で離着水訓練、一般飛行、夜間飛行それに特殊飛行である宙返り、急降下、錐もみ、垂直旋回等練習教程は全部終了しました。

全国の練習航空隊のなかで罰直の厳しい双璧として、”鬼の鹿島か地獄の博多”と言われていました。その”しごき”の厳しい鹿島航空隊でこんなことがありました。

厳しい訓練に食べ盛りの若者が腹が空かないわけがありません。
その誘惑に我が分隊の食事当番が負けて、他分隊の飯桶を盗んで皆で食べてしまったのです。それが他分隊の教員の知るところとなり、我が分隊の教員にクレームがきました。さあ、その日の夕食後総員集合がかかりました。100名ほどの練習生が集合され、10名ほどの
教員が手に手に野球のバットや”軍人精神注入棒”と墨書した樫の棒を持ち、フロアにはオスタップ(掃除用の銅製バケツ、直径1メートル)に水が満々と張られていました。

そして、教員は一人々々を呼び出してはハンモックを吊るビームにぶらさがりさせ、それらの棒で思い切り尻を殴るのです。身体は反動で前や後ろに揺れ動きます。それを待ち構えて又殴るので尻の痛さは思いのほか強いのです。5,6発喰らうと痛さとしびれで思わずビームから手を離して床に崩れ落ちます。そうするとオスタップの水をかけられ、一瞬正気に戻るとまたビームにぶら下がりさせられ、また、バッタの続きとなります。私はその時24発喰らいました。これが海軍生活の最高バッタでした。

尻は内出血で膨れ、歩くにも痛くて尻は振れず、厠に行ってもしゃがむこともできません。海軍では一人がワルをすると連帯責任を問われることが多く、いつも教員の様子を見ながら要領よく立ち回る方が勝ちという有様でした。当時満16才の未成年者の私です。集団バッタを
喰らった夜などは吊ったハンモックの中で、こんな光景を母が見たらなんというであろうかと、理不尽に扱われた自分が可愛そうで思わず涙を流したものでした。

昭和20年4月、鹿島海軍航空隊の飛行練習生課程を修了し実戦部隊の霞ヶ浦海軍航空隊に転属し、今度は陸上車輪つきの赤トンボの訓練に入りました。当時ガソリンの一滴は血の一滴と言われ、航空燃料は不足していたのに何で訓練を続けていたのか、今でも懸念があります。
このあと6月頃から筑波山麓の真壁の農家に民宿して、そば畑をつぶして飛行場を作る作業に従事しました。その頃日立沖には敵艦船が遊弋し、艦砲射撃や敵機が日本上空を我が物顔に制圧していましたから、それらを総合勘案すると臨時飛行場から日立沖の敵艦船に対し、特攻攻撃が計画されていたのではないかと思われます。あと3カ月も終戦が伸びていたら、私は赤トンボ特攻としてもうこの世とオサラバしていたかも知れません。

こんな飛行場造成作業が続けられていた7月20日過ぎの某日、上官が私に佐原の実家が空襲され、家族が怪我をされたのですぐ帰るように指示がありました。私は取り急ぎ霞ヶ浦航空隊に帰り身の回りの整理を行い、土浦より汽車に乗って実家のある佐原に着いたのは7月24日の正午頃でした。駅について私は徒歩で仁井宿の東京電灯佐原変電所前の社宅に急ぎました。父はずっと東京電灯(後の関東配電、現在の東京電力)勤務で当時は銚子営業所に通勤しており、住居は変電所前の県道をはさんで2軒ある奥の社宅を借りていました。

すぐ実家に廻った私は愕然としました。板塀、屋根、外壁は無数の弾痕で一杯で近所の人に聞いたところ、敵機P51ムスタングの変電所を狙った空襲はアメリカの独立記念日の7月4日正午前のことであったそうです。2軒共用の井戸が県道側にあり、そこで洗濯物をしていた母は警戒警報が発令され、すぐ空襲警報に切り替わったため、当時は午前中のみの授業で小学4年の末娘とその年小学1年に入学したばかりの末息子が帰る頃と思い、急いで家に入ったようです。

その途端P51の変電所銃撃が始まり、数回の反復銃撃があったそうです。
実家にあった弾痕はその流れ弾の跡でした。残念なことに母達は庭先に掘ってある弾着の痕がなかった防空壕には入る余裕がなかったらしい。
母は腹部に妹は左脇腹に受傷し、弟は後頭部から銃弾を受けて即死であったそうです。

家から500メートル程離れた工場に女子挺身隊として勤めていた私のすぐ下の妹は、連絡を受けてすぐ病院に駆けつけました。その日は佐原駅前でも銃撃があり、病院は負傷者と付き添いの者でごったがえしていたそうです。その人垣の奥の手術台の上に横たわっている母は手のつけようのない血まみれのお腹を出したままで、でも気丈な母は自分の怪我が痛いとか苦しいとか一言も言わずに「後の事は頼むね」と繰り返し、とうとう16時半ごろ息絶えたそうです。
左脇腹に負傷した妹は当時は良い薬が無く、治るまでに約1年かかりました。

事件後実家では私に知らせるため、すぐ航空隊に連絡したそうです。しかし、私は航空隊を離れて飛行場建設のため民宿していましたから、連絡が後追い後追いになってしまい、事件のあったのは7月4日、私が佐原に帰ったのは7月24日、葬儀もとっくにすんでしまって母は白木の位牌になってしまっていました。

私は志願した身、死ぬのは当たり前となります。事実、鹿島と霞ヶ浦の2航空隊で1度づつグラマンの銃撃を受け、死ぬ思いをしました。怖いですよ!20ミリの機関砲弾が2メートル間隔くらいにブスッ、ブスッと地面に突き刺さります。先に行った敵機は90度反転して今度は横からピンポイントに狙って銃撃してきます。
鹿島では防空壕の入り口を狙われて壕内にいた私の1人おいた横の練習生が膝頭を貫通されました。

終戦の日は筑波山麓の飛行場建設地で迎えました。ラジオに雑音が入り、天皇陛下の録音放送はよく聞き取れませんでした。すぐ航空隊帰還となり、身の回りの整理を行い、毛布や缶詰の配給があり、金1000円也が下賜されました。除隊は8月24日でした。

母の名前は”らく”といいます。明治32年生まれで亡くなった昭和20年は満46才で生涯を閉じました。酒好きの亭主の世話と9人の子育てにとても”らく”になれずに逝ってしまいました。せめてあんな不運に合わなかったら、50才過ぎ頃からは子供達を尋ね歩いて孫を抱いたり、旅行に連れて行ったりして、今までの苦労に報いることができたのにと思います。50回忌は数年前回向しました。

国と国との喧嘩=戦争は悲惨です。相手を数多く殺せば殺すほど英雄になります。
殺したからと言って損害賠償もされません。そこはもう狂人の世界です。
理性はもう完全になくなって、自己保身のみに囚われます。軍人も民間人も抹殺の対象です。人間はなんでこんなに愚かなのでしょう。自分と考えの違う人がいても認め合って、話し合って共にこの世を生き抜いて行く、そんな考えが必要だと思います。終戦の頃の貴重な経験を我々は次の世代に伝えて行かねばならない責務があると思います。      以 上

  谷 口 敏 夫
 

   

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